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In the Air, We=I live.

狙うは超文法 与える興奮を 教訓を説く前にNo look own

幸せについて本気出して考えてみたらいつでも同じところに行き着かない

なんといいますか文脈によるとはいえ、「幸福」と「しあわせ」に意味上の差異を設けることは割りとよくあることのような気がします。

 

wikipediaの「幸福」の項目には歴史上の思想家のさまざまなアプローチが展開されています。はてまぁ比較的抽象度の高い言葉ですので解釈の多様性に関しては言わずもがな。ここはぼく、ちゃるおれの個人的なブログですので、何を言っても許されるかなという前提でゆきます。前提の奇怪さというか面白さについてはまた後日述べようかなと思っています。といいますか認識論的な前提に関してまだまだ整理の追いつかない部分が多く、整理し終えてから。

 

で、結論から申しますとあるツイートに行き着くかと。

「哲学のない世界というのは、たぶん幸福な世界だろうけど、豊かな世界ではない。幸せと豊かさは違う。満ち足りた幸福と違い、豊かさは欠落や過剰を抱えた、つまり毒を含んだ果実なのだ。」kaze botより

 

まぁすごい。賢い人ってのは僕が5万字を要する見解をこれだけの短さ、明快さで述べてくれます。すごい。

 

まず「哲学」というものの存在に目が留まります。

哲学ってなんだろうってのも幸福と同じくらいの抽象度のため、うーん難しいわけですが、文に起こさなくてもいいかなと思います。個人の哲学、人生哲学、学問の一指針としての哲学、学問の一領域としての哲学。いろいろありますし、うん。語りえないよ。僕としては「見過ごしてしまいそうな事象に関して疑問を抱いてみること」くらいの意味ですかね。考えること、というか、まぁ大体そんな感じです。

 

そして「幸福」ってのは比較的容易に入手可能である、ということ。

例えば、朝起きて、仕事へ行って、心地よい徒労感を得て、帰りにちょっと一杯引っ掛けて、うまいもん食って、あー今日もがんばったなぁって眠りにつくこと、すごく幸福じゃないですか。日本国憲法の幸福追求権の項に於ける「幸福」もそれくらいの意味だと思います。ここに性欲が絡んできてもグッドではあると思いますが、僕が言いたいのは三大欲求に絡んでくる比較的好ましい体験に対する反応として「幸福」が位置づけられるということです。そこに奥行きはなくて、非常に平面的でも許される。本能という言葉は使いたくはない言葉のひとつではありますが、本能的に「しあわせだぁ。」と思うときの心のあり方が幸福。これだけでも十二分に生きてゆけます。しあわせなんて要らないって結論も全然アリです。

 

対して「しあわせ」とは。

結論出ちゃってるんでなんともいえないですが、「豊かさ」かな、と。

われわれ人類には理性と呼ばれるものがあるそうで。それらしきものを働かせて「闘争」することが、豊かさ、もとい、しあわせを求めて哲学することかなと思います。先日行ったライブハウス、読んだ本、ツイッター、行きつけのバー。バトルフィールドは日常の中にあります。僕は割りと経験主義的者寄りですので、まず動いて、そこから拾っていくってパターンが多いです。こうやって傲慢な文章を書くのも、僕にとっては闘争に他ならないわけです。闘争は戦いでありますから、当然自分が傷つくこともあります。そこには苦痛が伴うし、全然幸福じゃない。毒を含んだ果実、言い得て妙じゃあありませんか。「日常を闘争する」、その上で、その戦いの戦果として得られた言いようのない「体験」が(ぼくにとっての)しあわせなんかなぁ、と。

 

まだまだ纏まっていない感がすごいですが、とりあえず整理のためだけに書きました。じゃあ公開しないで下書き保存すればいいじゃないかって感じですが、単純にアクセス数増えるとうれしいので公開します。J.S.ミルの快楽に質を求めるアレに近いですが、その辺は突っ込まないでいただけるとありがたいです。

 

じゃあ「闘争」ってなにと闘争するのか、それは孤独に他ならない。

人生を何者かからの逃避だとするのなら、その何者かは「孤独」ですかね。

その辺はまた今度。

 

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