エル・ディアブロ

相変わらずバイトしかやってません。
散財できるし、何も考えなくていいからベターなんですけれど。

さっき蔦屋で斉藤和巳きゃりーぱみゅぱみゅビートルズのアルバム借りてきました。確かにやさしくなりたい。

それはそうと、「近づく」ということについて。

今回はフィジカル面から、オブジェクトとしてみた「ヒト」と「ヒト」の物理的距離のお話です。

恋人同士は手を繋ぐ。
恋人同士はキスをする。
恋人同士はペッティングをする。
恋人同士はセックスをする。

まぁ恋人同士でなくても全然セックスまでするんですが、手をつないだり軽いキスをしたり、そうした皮膚同士の接触を恋人同士は好みます。温もりを得られるから、というのも理由の一つかもしれませんが、とりあえず今回は「距離」について考えます。唇の表面の細胞が死細胞かどうかは知りませんが、手の皮膚の表面を構成して居る細胞は死細胞だと聞いたような気がします。死細胞同士の接触が触れ合うことであり、その距離はゼロ?かなぁ。
人と人の距離について話す時に、避けて通れない議論として「自己の境界をどこに置くか」というものがありますが、どちらかと言うとメンタル的な側面が強い議論ですので、今回はスルー。皮膚の接触した時の距離をゼロとします。

では、ディープキスやセックスはどうでしょう。ゴムありのセックスは距離が0.02mm生まれて居ますので、ナマで考えますと。やっぱ粘膜同士の接触は皮膚接触のゼロに対してマイナスを記すのかなーと。恋人同士が行うフィジカルコミュニケーション的にも(そういう言葉があるのかは分からないし、フィジカルコミュニケーションって手話とかそういうのっぽいけど伝われ)、手を繋ぐ→キス→ディープキス→ペッティング(挿入無し)→セックス(ゴムあり)→セックス(ゴムなし、これは子作りも含むので夫婦が一般的かも)みたいな順序な気がします。死語かもしれませんが「どこまでいったの?A?B?」みたいな位置づけもあるっぽいので、大きく間違ってはいないかな、と。

この一連のフィジカルコミュニケーションにおいて、発展するに連れ距離的にも近くなっていることがわかると思います。物理的に「触れ合う」ということが、人と人の間で大きな意味を持っているってことも言えなくはないです。

皮膚接触を0、粘膜接触を-10くらいだとすると-20くらいが食人になるんですかねやはり。

フィジカルコミュニケーション、愛情表現の帰結としてはやはりセックスよりも食人が相応しいかと。距離的に詰められるところまで詰めると、どちらかがどちらかを、もしくはどちらもがどちらもを「喰らう」という行為に帰結を求めるのは当然で、最高の愛情表現は「食」にあります。どちらかがどちらかを、あるいは、どちらもがどちらもを食べることで、愛する人の血肉を喰らうことで、外的な、目に見える形での「愛」は実行され得るのではないでしょうか。

東京喰種の月山習みたいなこと言ってますが、距離的に詰めてくとまぁ不自然な結論ではないかなぁ、と。
カマキリの雌は交尾の後雄を食べますが、すごーく自然なことだと思います。

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タイトルがエル・ディアブロでしたが、その理由。エル・ディアブロ、見た目はその名の通り禍々しい色、血のようないろをして居ますが、構成要素としてはテキーラ(40度)、カシスリキュール(15度くらい?)、ジンジャーエール、ライムとそんなに強くない、むしろ弱いものしか使用されず、見た目に反してすごーく飲みやすいカクテルとなっています。
まぁ、昨晩それを飲みながらちょっと考えてたんですが、ああ、なんか僕っぽいな、と。最近ストリート系のファッション雑誌を読むようになり、服の好みもそういった方面に向きつつあること、タバコを吸い始めたことなど、まぁなんとなく「ワルイ」感じのことが好きになって来ました。それはおそらく高校生までの抑圧と優等生という烙印の反動だと思うのですが、まぁ外見をそれっぽくしても、精神は変わりませんわな。究極の愛情表現が食人だ、なんて言っていますけど、ほとんど強がりというか、まぁそうも言えるよなーくらいのもんで。

エル・ディアブロ、名前と見た目は凄くても、飲み口のやさしいカクテルです。
そんな中途半端な感じが僕と重なって。
ああ、まぁそんな感じです。

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