In the Air, We=I live.

狙うは超文法 与える興奮を 教訓を説く前にNo look own

シンクロニシティ、ミンクの錦

ブラックボックス展がバズっていた。

ネタバレ前はすごく気になっていたが、ネタバレ解禁後はなんとも思わなくなった。

アイドルの誰かがバズっていた。併せてケンドリックもバズっていた?

何となく、ゴシップ的にこの土日は騒がしかった気がする。

かたや僕といえば、がっつり剃った左サイドを隠すべく、ひたすら髪を左に流していた。←オン→オフ的な循環で僕の前髪は不規則なメトロノーム

 

土日は行動分析の本を2冊読んだ。強化と弱化、好子と嫌子、消去と復帰、シェイピング、オペラント行動、行動随伴性、などの小難しいキーワードに目を通しながら、頭の中はココスの包み焼きハンバーグでいっぱいだった。あのアルミホイルにナイフを入れる瞬間、膨張した現代の欲望を想起せずには居られない。煮えたぎった甘さにある肉塊を好き好んで食べる人類の側面に冒涜を想像したものだ。イメージは大切だ。

ともあれ、行動分析学の、おおよそ日常生活と呼ばれる振る舞いに対する応用可能性は高い。日々を何となく過ごしたくない人にはうってつけの領域だと思う。「私」の生活は「行動」という単位で細分化できる。

--行動とは死人にできない活動のこと

言うまでもなくパンチラインだ。

①「〜される」と言う受け身

②「〜しない」と言う非行動、否定

③「〜している」と言う状態

上記の3つは行動には該当しない。自分の行動を、私の行動を、一つ一つ解き進めると、至極詳細な、気持ちの悪いエッセイが出来上がる。

私は「私は」と打った。

私は「「私は」と打った。」と打った。

私は「私は「「私は」と打った。」と打った。」

私は面倒になったのでCtrl+Cでコピーし、Ctrl+Vで貼り付けた。

何と言うか無限遡及的な話は聞き飽きたね。

ともあれ、自分が今何をしているかを自覚して振る舞うことは、立体的で色彩のある生を営む上で重要な位置を占める。行動分析の論旨としては、ヒト以外の動物のトレーナの方に読まれることが多いようである。著者も動物園のコンサルをやって居た人だとか、実際にイルカの強調やってた人だとか、なんかそう言う雰囲気である。

「自分以外の何か得体の知れないものを、何となく自分の意図した方向に向ける」

ということが、その目的のように思えた。が、独我論者にとってはセルフマネジメントがその目的の示すところである。自分は最も緊密な他人、という、過去何度神戸新聞の但馬欄の7割方を占めて来たのか分からなくなるほどに、ポピュラアで、日光猿軍団的な突飛さを持つ議論について、ここで語ってしまうことは、SMAP解散したことを、村の瓦版で知ることになる人類にとっては妙々たる言論である可能性が僅かながら残されているとはいえ、この世の大半のSMAP解散したことを認知している皆々様方にとっては。以下略。

 

いい加減まともに本を読んで、その内容を簡潔にまとめ、持論を少しだけ添える、という在るべき書評記事を書くべきでは在るが、日中まともに生きている?ので、少しくらい許してほしい。持論は革靴の手入れの際に塗るクリームくらいのボリウムで十分なのだから。相変わらず自己論駁的で衒学的で在る。この辺りは高校生の時分からウントモスントモ変わりゃあせんが、その源が大きく変わった。全くと言って伝えることを意図しない文章が、今の目指すところ。

 

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