In the Air, We=I live.

狙うは超文法 与える興奮を 教訓を説く前にNo look own

日曜日の夜、吉祥寺を追う

研修後、今の現場に配属されてから1年間たった。

こういう場合、1年間は早いなぁ、的な論旨になりがちだが、僕の感覚としては真逆で、1年前なんてもう3年前くらいに感じる、だ。要は時間の流れが遅くなっている。

週単位で振り返ると、もう木曜日かー的な心的状態にはなるが、年単位で振り返るとまだ1年しか経ってないのかよ。。。と行った具合だ。理由は当たり前で、単純に1日あたりの労働時間が長いからだ。別に苦ではないが、もう少し早く帰って平日も読書するようにはしたいという思いはある。

1年間と少し住んでみて、正直東京の水は合わない、というより学歴!年収!マンション!みたいな評価軸を持つ人の割合が、当たり前だが東京は高いので、その辺が怠い、単純に。大好きな日本語ラップのイベントは近場でやってくれるので、ヘッズであるうちは住んでよう、くらいのもので、早く実家帰って農業したい以外の感情はほぼない。土地はあるんだよ、土地はね。とは言いつつも、まぁやり残したことだらけなので、実家に帰る云々の話は現実的なものでもない。ただ、学生の頃抱いていた野心めいたものもあるわけではない。面白くして行きたい、という欲求はあるが、音楽聴いて煙草吸って、たまに一人か気の合う連れと飲みに行く、くらいの安穏とした幸福に肩まで浸かって10まで数え上げたタチだ。何となくだが、10代を苦痛であることでしか生きられなかった身としては、今くらいのテンションが心地よく感じてしまう、みたいな話だ。この宙ぶらりんなテンションは、最も哲学や文学といった領域から遠いところにある。「それら」は極端であることがその発生の条件にあるし、何しろ「それら」はギリギリのところで垂らされる蜘蛛の糸なのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。

 

話をどこに落とせば良いのか皆目見当もつかない。が、昨今のテーマが超文法なので、こうやって公的言語に乗せている時点で既に着地は完遂していると思いたい。

仕事で「分かり易い()」書き方を心がけているため、こうやって垂れ流しで書くのは心地よいことだ。別段守るべき外聞も、気をかけるべき恥も、過去も何もないのだから、ただ泰然自若、好きな時に煙を吸って、好きな時に呼吸をし、好きな時に水が飲める環境に感謝すべき、なんて一枚岩なナチュラリスト

別に一体となる必要はない。ロックマンエグゼでフルシンクロになったらつよい、みたいな単純な話なんて現実的じゃないじゃんね。ちゃんと線を引いて、ちゃんと対象化してあげようね。そうじゃないと近い遠い、親密だ緊密だ疎遠だ、暖かい冷たい、なんて形容ができなくなっちゃうでしょう。最近やっとインターフェースの本質が掴めた。そこが曖昧でうまくいった試しなんてないはずで。境面は反面教師じゃないって話。

今の状態は無防備なアンバランスド・バランスの上に成立している。いつだってバランスド・バランスになりがちだし、それが世間的には好しとされているのも相まって、アンバランスド・バランスは基本的に愛玩的であることを求められる。左右から均等に力が入っている状態なんてないわけで。いやこれは別に思想の話じゃないよ、私は政治には疎いがメロスではない。

「傘を差す習慣のある人にとって、明日の天気よりも重要な情報はない」

最近の私的パンチライン。傘を差す習慣がない人類は雨を避けてはいないという側面においてはかなり幸福な部類に入るんじゃないかとか。

研修で読んだ「7つの習慣」にも似た話があったが、雨が降って沈んでいるようじゃドンブラ粉塗ったらどうなんの笑どこまで沈むの笑、的な。

 

「遺稿 改 生こう 〜腐敗地獄・陰〜」がこの前のグラファイトの件の元ネタやったんすね。志人は音楽じゃない。音楽じゃない何かを焼いて売ってる。我々が焼かれたものを買って、.mp3でどうこうしているだけのこと。

 

最近偽善者として振る舞うことに嵌っている。

 

歯医者に通いだして、腔内を見られる恥を知った。これはキツイ。

 

多分、人生の節々には、それに相応しい元ネタが必ずあって、その元ネタが語り尽くされたこの世の全ての記述という記述のパロディで、新しい、なんて感覚は虚仮以外の何物ではなく、アカシックレコード的な発想から逃れられない永遠の少年が経験を超越することはない。例えば、何を基準に句読点を打つのか、みたいな問いに対してある答えが、明日の自分の振る舞いにはないことを不安に思う気持ちがある限り、どうこう考えていても埒が明くはずもない。自明なことをこうやって長ったらしく書き連ねることにある種の興奮を覚える。キーボードを叩く手が止まらない。一つのことについて書こうとはしていないが、ただ頑然たる事実として、我々は、僕は一つより多くのことは書くことができない。それは例えば細分化できるテーマについて書いているつもりでも、結局は大きな一つのことを書いている、といった捉え方の違いから生まれ落ちる詭弁の類ではなく、ただ頑然と、然あるべし、とのたまった神があなたです。急に現れる二人称は叙述トリックの序の口です、的な笑。

 

自分と違っていることに恐怖を向けるのに、自分と明らかに違う何かを好きになるって感覚、幸福の象徴だと思う。気づかない内にすり替えられている何かと何かを、特定して把握することで見られる世界と、気づかないことで得られる幸福について、もう800年ほどは語り尽くされただろうか。気づかないふりして気づいているのと、気づいたふりして気づいているのと、気づかないふりして気づかないのと、気づいたふりして気づいていない、この4つに差はあるか?説明できる?わからない。

 

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志人 - 道 ~たまゆら~【歌詞】