アランデビルズパンチボールファイナル

すごいな1か月以上放置してた。

ちゃるおれですこんにちは。

タイトルは最近行きつけのバーに入荷した限定生産6,666本のスコッチ。

おいしいです。

 

「武士は食わねど高楊枝」的生き方について。

昨月に読んだ内田樹「疲れすぎて眠れぬ夜のために」にある「今よりも一つ下の生き方」みたいな考えがあるんだけれども、まぁ上昇志向というよりは「下流志向」みたいな感じでして。すごく納得がいく、というよりは、それに近い生き方を僕もしているし、周りの学生を見ていても、twitterのTLとか眺めていても、ある種ロールモデルみたいな感じで確立されつつある下流志向。そんななか、「プライド」というものについて少しだけ悶々としてみますと、まぁいわゆる「プライドが高い」って今日日ちょっと付き合いづらいくらいの性質ではあるような気がします。バイト先にももちろんいるし、所属している団体にも、もちろん。

 

んで、「武士は食わねど高楊枝」的生き方についてですが、ざっくりいうとこれは下流志向と相反する方向性をもっているのかなと。下流志向、という考えは、「ガツガツいかずリラックスして、ゆるーく生きよう」みたいな感じ(かなりうろ覚えなので悪しからず)だとすると、くだらないプライドなんか捨てて、楽に生きよう、という解釈も許容されるかと。昨今だと「安定志向」とかよく言われますが、まぁそんな感じです。そして安定志向の潮流の元、現代社会(ぼくのまわりとtwitterに限る)では、「武士は食わねど高楊枝」という美徳精神みたいなものが薄れているように思います。

 

「ありのままの自分がいい」とか「オンリーワン」といったウンコみたいな個性尊重がないとは言いきれない現状がある中で、なるべく尖ることなく、見栄は虚飾で、プライドは虚勢で。ぼくが最も納得する、ゆとり教育指針に合致する「個性」の定義付けは「指紋」です。指紋って人それぞれ全く違う、しかも優劣もない。素晴らしいじゃないですか。我々ひとりひとりの指紋は、各々の絶対的個性として、みごとに「オンリーワン」を謳ってくれています。まぁ問題は、指紋が人と違うことに対して喜びを感じうるかどうか、なんですけどね。(個性=指紋はある人のツイートを引用させていただいております。僕の発想ではございません。)

 

結論として、「武士は食わねど高楊枝」的に生きる、ってことは必要なんじゃないのかなぁ。ということです。もちろん僕にとって。それ以上は言えません。見栄を張って、プライドも持って生きるということが、いまだからこそ必要なのかな。

それはなんというか「強くある」とは全く別の話で。結局は「こだわり」なんだと思います。僕は大学時代を通して(主に成人してから)、ウィスキーと靴(と服)という「好きなもの」ができました。ぼくは基本的には怒りませんが、その辺を馬鹿にされると怒ります。そこにはなんとなくではありますが、プライドめいたものがあるように思います。

 

こういう記事って啓蒙的に映っちゃうけど結局いまのぼくの内省ともいえぬ内省でしかないのかなぁ。まぁ私的なブログなので無問題ではありますが(だと信じたい)。

 

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