誰かを好きになるということについて微妙に本気出して考えてみた

事実上20年と半年ちょいという人生の中で出会った、関わった人には、人を好きになりやすい人となりにくい人がいるような気がします。

言うところの恋人関係にある人が絶えない人、そうでない人。

目の前の異性もしくは同性をすべて恋愛対象として見る人、そうでない人。

追いかけていたい人、そうでない人。

正直なところ人をカテゴライズするのはあまり好きではないです。

しかし、僕の中の「好き」を整理するためにも、とりあえず文字に起こしてみます。

つらいっすけど。

 

1.「人が好き」ということについて

高校3年生の時の担任が文系と理系の違いについて僕に語った時、人文科学と自然科学というところから話してくれました。文系は人を科学するのだから、「人」が好きなもんだ、みたいな趣旨だったような気がします。当時はまぁまぁ腑に落ちた記憶があるんですが、「人が好き」ってどういうことだろう。

博愛主義者は誰も愛さない、ってのは一種の詭弁みたいなものな気がしますが、実際そうだと思います。「愛する」という心の動きがそもそも差別的にみるってのもそうなんですが、「みんな大好きだよ」の「みんな」っていったい誰だって話で。まぁtwitterのフォロワさんは割とみんな仰ってる気がするんですけど、たとえば「日本人は他人に合わせる傾向にある」と言ってみたときの「日本人」は「誰でもあるけど誰でもない」みたいな感じで。そこに「個」はなくて。マクロ的な視点で話すうえで仕方がないことなんですが、比較的大きな範囲で「括る」ということをすると、そこには誰もいなくなってしまう気がするんですよね。「みんな大好き」の「みんな」は誰でもない「みんな」なのかなぁ、と。では「人が好き」ってどういうことかというと、「人(という現象)が好き」なのかなぁ、と。

 

2.現象としての「人(他人・ひと)」

高校時代の同期の子で、「街ゆく人をみて、その人の人生を想像するのが好き」的なことを言っていたような気がする子がいたんですが、僕はそういうことをすると、意識の一方的な投げかけによる重みに潰されそうになるのであまり好きではないです。その同期の子にとって、街ゆく人(電車やバスで乗り合わせた人などもおそらく含む)は、観察対象として一対一に持ち込めるもんだと思います。けれども僕にとって街ゆく人はあくまでも「風景」でしかない。風景というか現象に近いですかね。街ゆく人は、その街の一部であって「個人」ではない。今日日「人間観察が趣味です」とか言おうものなら拗らせてるみたいなベクトルの評価をいただくことがありそうですが、街ゆく人の見かたにもいろいろあるんだなぁって感じですね。僕も人間観察割と好きなんですが、バイトで靴に触れる機会が多いもんで、僕が(現象としての)人を見るときに絶対見るのは靴です。逸れますが風俗やキャバクラのスカウトの人が女の子を見るときに靴を見る、みたいな話を聞いたような記憶があって。トップスやボトムス(いわゆる「服装」)には気を遣っていても、靴が汚かったり安っぽかったりする子に声をかけているらしいです。確かに今のバイトを始める前の僕は、ナイキのエアフォースを1年半履き続けていて、靴にお金をかけることはまずなかったので、まぁそういうもんなんかなぁみたいな感じでその話を読んでいたんですが、今となってはなるほどなぁと思ったりしますね。

 かなり逸れましたが、僕の場合は街ゆく人ってのは現象で、差し向かいで関わった時だけ、その人は「個人」として認識されるって話でした。「人が好き」の「人」が現象の人である場合と、個人である場合があるのかな、ってことで。人文科学の扱う「人」ってのが前者であることは明白ですが、我々が(少なくとも僕が)好きになる、愛することが可能な「人」は後者であることが多いような気がします。じゃあ「好き」ってどういうことなんかなー?

 

3.「好きである」ということ

昨日行きつけのバーのマスターに「人をすきになるってどういうことですかね?」と訊いてみたところ、怪訝そうな顔をして「ずっと一緒にいたい」と一言。まぁ確かにわからなくもない。日常の一部分として組み込みたい、というと独裁的というか、傲慢な感じがしますが、まぁそういう解釈も可能かな、と。それはそれで置いておくとして、一度徹夜でドラマ版の闇金ウシジマくんを見ていた時に「心が欲しい」という文言が浮かんできて。ああなるほどな、と。体は僕でもソープなりヘルスなりで買えます。そういうもんです。でも心って買えない(買える場合もあるとは思いますが)。僕はフィジカル的には素人童貞でも玄人童貞でもないのですが、小中高で童貞を拗らせているので恋愛に関しては奥手な方だと思います。なので恋愛ってものをすごーく重く見ているというか、付き合うなら本当に好きな人、みたいな部分はあります。僕の少ない人間関係のなかでも、「とりあえず付き合ってみてから判断する」という考えの人も少なからず居て。というよりそもそも僕の矜持として「関係をラべリングしない」みたいなのがあって。両親や祖父母、兄弟姉妹は一応書類上というか社会的に法的な繋がりがあるので名前があって然るべきかなとは思うのですが、「友達」「彼氏・彼女」という比較的一般性の高い「関係」を表定するワードに関しては違和感を覚えます。「彼氏・彼女」に関しては、一般的に双方の同意の下の契約的やりとりがあるにせよ、そこに拘束力は働かない筈です。ましてや「友達」に関しては訳が分からない。基準も糞もあったものじゃない。まぁ名前があるってことは第三者に対して説明する際、その説明の伝達性を補助する役割にはなるとは思うのですが、僕はロマンチストなので、「二者間の関係は『ぼく、と、あなた』しかない」という矜持に基って行動しています基本的には。なので付き合って下さいお願いしますという請求をする時点で、その請求は「ぼく論」的には論理的整合性がない、って話になります。恋人という曖昧模糊な言葉を免罪符にするのも如何なものか、と。しかし、今のままの関係を保持したいけれど、向こうに(性はどうあれ)恋人と呼べる関係の人が現れてしまった場合、その関係の維持は困難になる、というケースも出てきます(今の僕がまさしくそれ)。その場合どうするか。矜持を採るか、関係の保持を採るか、というディレンマに苦悩するわけです。

 

4.結論

ということで結論としては、恋は盲目といいますか、「そんなややこしい矜持とかどうでもいいから、関係を深めたい。ぼくはこの子が大好きだあああああああああああああああああああああああああああああうっはああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああいやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」という状態になって初めて「この人が(恋愛対象として)好き」ってことになるのかなぁ、と。くどいようですがもちろん僕の場合は、ですけど。

 

今学期履修している哲学概論という講義で「自由」と「決定論」の対立を習ったのですが、とどのつまりどちらを採るか、信じるか、ということは、「立体的な生を営んでいるか、平面的な生を営んでいるか」に依るかな、と思います。立体的、平面的に関しては感覚的な側面が多くを占めているため、これ以上の説明の余地はありません。悪しからず。強いて言うならエロゲか映画か、って感じですかね。自ら選択し行動するか、そうでないか、みたいな。今の僕は平面的な生を全うしている最中ですね。ちなみに。

 

長々と書いてきましたが(この時点で3,155字)、割とフォロワーさんの意見を援用してる感がありますので、もしこの長い記事をお読みになってくだすって、不快感を覚えられたのならマジでごめんなさい。

にしても深井さんの「言えただけ」ってマジで神発言だよなぁ。

 

Δ

 

おやすみなさい。