KNOB CREEK on the rocks

なんとなく見始めた2周目のリーガルハイが最終回を迎えています。

ともあれ、新垣結衣が可愛ければ何でもいいし、楽しければ何でもいい。

面倒なことはしたくないけれど、将来の面倒くささを鑑みると刹那的な面倒くささは我慢する必要がある。

KNOB CREEKというバーボンがありまして、あー、美味しいなぁ、と。

酒が美味けりゃ、煙草が美味けりゃ、それでよいけれど、そこにあるのは僕だけの、ぼくだけの孤独のない世界だけで、たまには孤独が欲しい、というのは恐らく戯言で、ほんとうはすごく孤独だ。伝える必要のないことを、伝えたくなることもあるし、人肌も恋しくなる。けれども、そんなことは

誰も知りえないし、僕だって知りえない。あるのはいわゆる「結果」だけで、それに対する評価何てものは僕にとっては無価値だ。「いま」というダイナミズムで、こういうことが起きた、という刹那的事実しかありえなく、細分化可能な最小単位に於ける、n番目の「いま」にのみ事実は存在できる、極端に賞味期限の短い珍味のようなものだ。n+1番目には、その「事実」は「情報」になる。そして情報に嘘や虚実はつきものだ。そういう危うい事象の絶え間ない荒波の中を、僕らは、少なくとも僕、否、ぼく、は生きている。n番目のぼく、と。n+1番目のぼくが「同一」であるという連続性に対する根拠は一切、どこにもない。兎角危うい。ああ、無常。

 

そして、こういったことは、まったくと言って「伝える」必要はない。そもそも、コミュニケーション―対話であれメールであれ、SNS経由のものであれ、自然言語によるコミュニケーションにおいて、「伝達」というものは成立しえない。まず、他我の存在が怪しい。次に、解釈可能領域が広すぎる自然言語はコミュニケーションに向いていない。けれども社会生活を営む上で自然言語コミュニケーションは必要不可欠。そこで僕らは解釈を行う。

老人と海」「誰がために鐘は鳴る」等で有名なアーネスト・ヘミングウェイの言う「省略の文学」は、もし作者が、書いていることを十分に知っていて、分かっていることを省略しても、「ほんとうの」ことを書いている限り読者は作者が書いたことと同様に強い印象を受けるだろう。氷山の動きに威厳がるのは、それが表面に全体の八分の一しか現れていないからである。ただ、知らないからと言って省略するのは、作品の中に空白が生まれるだけだ。(「午後の死」より)というものである。

 

いわゆる「行間を読む」に近い感覚ではあるが、それとは違う。抽象的な文言を投げかけて、その文言の理解をコミュニケーションにおける受け手(以下B、また、伝え手をAとする)に依存させる「行間」には、自然言語コミュニケーションにおける、Bの絶対的優位を崩壊させる機能がある。基本的に自然言語コミュニケーションにおいて、正義はBにある。「いじめられたほうがいじめだとおもえばそれはいじめ」の論理と同じだ。Bの絶対的優位を崩壊させるため、特に縦社会における上の人、中途半端な全能感をもった人間がよくやる手(私見ではあるが)である。僕もまたその一人だ。そしてぼくはこの「察して文化」がすごく嫌いだ。以上。

それに対して省略の文学は(まぁ比較するのも変な話ではあるが)、伝わらないという前提の下で、んー、なんというかね、綺麗っつーか…あ、そうだ、昨日思ったのだけれど、ウィスキーってすっごく綺麗な色してるよね。うん。まぁ、正直なにが言いたかったのかわからなくなってきましたけれど、伝わらないということを受け入れて、ぼくが求める厳密性というか完全性みたいなものをとりあえずは捨てて、受け手の自意識も認めて、そのうえで、その解釈の多様性を「面白いなぁ」と眺めることくらいしか、ぼくには許されていないのかなぁ、と。

 

坂口安吾は、「孤独は魂の病だ」といいます。生きている限り、少なくとも日本社会、自然言語コミュニケーションによって構成された自我らしきものを有している限り、安吾のいう「孤独」からは逃れられない。人生を定義する機会はままありますが、ぼくは何かからの逃避であるという側面もあると思います。安吾の言うように孤独が魂の病であるなら、あなたもその病に侵されています。そしてその、病からの逃避の手段が、われわれの、否、ぼくとあなたの、「生き方」なのかな、と思ったり。

 

博愛主義者がだれも愛さないのは、「みんな大好き」の「みんな」含まれる人が、存在するはずもないからなんですかね。

 

あー煙草美味しい。

 

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