In the Air, We=I live.

狙うは超文法 与える興奮を 教訓を説く前にNo look own

シーバスリーガル18年

滋賀県も随分と暖かくなり、桜も咲いてきています。


大学は新歓シーズンです。


まぁ、それはいいとして、桜といえば坂口安吾桜の森の満開の下」ですね。桜には人を狂わせる性質がある。書評を書くつもりは無いですが、名著であるという評価もありますし、読んで見てもいいと思います。


ミルフィーユのはなし。


我々が社会生活を営む上で、「時間」は非常に重要な要素の一つです。定められた時間に遅刻すれば、いい顔はされませんし、常に時間を気にしないと生きられません。

その時間とやらは、どうやら「流れて」いるらしいです。もちろん可視ではないですし、「時計の秒針が一つ進めば、一秒経ったことになるのか、一秒経つと時計の秒針が一つすすむのか」のどちらかといえば前者であるという感じがします。何らかの媒体で「正確な」時間を知らないと、我々の社会的生は維持されません。そしてその見えない時間の流れの中を、我々は生きているらしいです。

そして、その大きな流れをより微視的に見て行くと、ミルフィーユの一層一層まで分解が可能です。細分化可能な最小単位が、ミルフィーユの一層です。そしてそのミルフィーユが象徴するものは、細分化可能な最小単位における「事象」に他なりません。イメージとしては、この世に生を受けた時から、僕の体より一回り大きいミルフィーユが、眼前から迫って来、その無限に思える有限のミルフィーユの一層一層が、僕の体を覆っては過ぎ去りを繰り返す訳です。n番目のミルフィーユは、n-1番目のミルフィーユに鋭敏な依存性を持ってはいるものの、完全な連続を許されたわけではなく、その両者間には、図りようもない差異が生じることがあります。例えば、これは少しずれた例ですが、僕が桜を見ると、その認識した時点でのミルフィーユがさくらいろになり、認識から外れると、違う「いろ」のミルフィーユになります。さくらいろのミルフィーユ、美味しそうですね。そしてそのミルフィーユの一層一層が、他でもない、我々が唯一生きることを、描くことを許された「いま」というダイナミズムに他ならないのです。


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